2014年 07月 30日
七月の七がちからをふりしぼる
タイトルはねじまき7月句会の提出句。
7月も終わりですね。
月刊★ねじまき更新されています。
(もう、「週刊★ねじまき」でもいいんじゃないかと)←なぜか小声
柳本さんは、(川柳には)「俳句における季語のようなデータベース的な共有された巨大なシステムとしての他者がない」、「短歌のような七七という下の句がない」から「上の句と下の句で構造化できない」ために「主体のねじれが起こりやすい」と考察されています。
いつもながら鋭いご指摘に圧倒されます。
アプローチの仕方や表現方法は違うかもしれませんが、同じようなことを考えていました(います)。
永田和宏さんの『表現の吃水 定型短歌論』の有名な「合わせ鏡説」を読んだとき、同じようなことを思いました。
上句と下句が問答という構造を成すという、あれです。
永田さんが言われる「問い」は、柳本さんが言われる「他者」ですね。
それで言えば川柳には答えしかありません。
ではほんとうに川柳には問い=他者はいないのか?
川柳のルーツは付句です。あらかじめ提出された問いである七七に対して、答えとして書かれた五七五でした。それが進化(?)の過程で七七が外れていった。というか、七七がなくても五七五だけで自立できる句が良しとされ、残っていったのです。
では、消えた七七である、問い=他者はほんとうに消えたのでしょうか?
わたしは目には見えないけど在る、と思っています。あるときは五七五に吸収され、あるときは「題」にかたちを変え、あるときはまぼろしの七七として、そこに存在しているのではないかと。
吸収されたり、外部にあったりする、見えない「問い」のせいで、柳本さんが言われる「ねじれ」が生じるのではないかしらと思います。
「〈ねじれ〉とは、これまで存在しなかった関係性をはじめて関係しえない関係性として生み出すことではないのだろうか。そして/だからこそ、川柳にはつねに〈ねじれ〉が胚胎している。」そらとぶあとがき より
吸収されたり、外部にあったりする、見えない「問い」のせいで、柳本さんが言われる「ねじれ」が生じるのではないかしらと思います。
「〈ねじれ〉とは、これまで存在しなかった関係性をはじめて関係しえない関係性として生み出すことではないのだろうか。そして/だからこそ、川柳にはつねに〈ねじれ〉が胚胎している。」そらとぶあとがき より
by nakahara-r
| 2014-07-30 22:29
| 川柳