きらきらとねこと夕陽と声である

「おかじょうき」9月号より

いいひとになるアンパンマンの右隣り  須藤しんのすけ
「では、左隣では「いいひと」にはなれないのか?」という読み手側からの疑問をあらかじめ想定した書き方ですね。最近はまっている白川静の『漢字百話』によると、古代の神事において、右という字の口の部分は<のりと>、左という字の工の部分は<呪具>であるとか。そういえば左大臣のほうが位が上なんですよね。で、この「右隣り」アンパンマンから見て、でしょうか? 向かって、でしょうか? など、いろいろ想像して楽しくなった作品でした。なんか、かわいらしいし。(って、さいごはそれかよ)

引き分けを挟んで本日も夏日  月波与生
夏日、夏日、引き分け、夏日、と続く日々。何と何が引き分けたのかわからない、というか、そこ並列にしますか? という意味でおかしい。
もしかして引き分けって「曇り」かな? いや、じゃ夏日は勝ち? 負け?

二の腕に少し残っている鱗  徳田ひろ子
前世は魚だったんですよ、わたし。ほら、ここに証拠が。みたいな句はおなかいっぱいなんですけど。でもね、鰯とか鯵とかの鱗をとっていると、とびますよね、鱗。それが二の腕にくっつくのはありがちなこと。そういった現実路線(?)にひょいと飛び移れるところ、ゆめゆめ路線だけではない、そこがいちばん好きです。

もうそこは水でわたしで注意報  ひとり静
「もうそこは水でわたしで/注意報」と切れていると読みました。水とわたしの境界があやふやになっていて、危ういのです。と、主体が覚醒しているところが好きです。酔っていたらヤなかんじの句になりがちなんですよ、こういうモチーフって。

手紙からダイナミックを取り出して  柳本々々
「ダイナミック」が名詞になってしまいました。しかも「取り出して」からどうしたのかが書かれていません。読み手はしおしおとなった手紙とともに取り残されます。そもそも手紙とは到来物です。かなたから届いたものが届けたかったのは、まさに「ダイナミック」だけだったのかもしれなくて。観客である読み手は「ダイナミック」の移動をただ見ていればいいのかもしれません。

ユニクロへ吹石一恵買いに行く  吉田州花
川柳と固有名詞は相性がいいと思います。まっさきにユニクロのジーンズを履いた吹石一恵を想像しました。この句の「吹石一恵」は「履けば吹石一恵のような足になれるユニクロのジーンズ」が省略されたものではないかと思ったのでした。すごい省略ですが、日常でもこういう言い換えするなあ、というところがいいなと。

山も木も私も空も蛾も海も  むさし
ぜんぜんそんな気はなかったのに、こうしてみると今回は並列がmy favoriteだったみたいです。「山、木、私、空、蛾、海」という語の並びに注目しました。だいたいこういうとき、「私」は最後にくることが多いです。そういう句をわたしは隠れ自己愛、とひそかに呼んでいます。この句のこの位置に「私」が配置されているのは森羅万象に取り囲まれている状況を顕しているのだと思いました。視線が遠くの山から近くの木へ、私へ、もう一度空に、近くを飛ぶ蛾に、蛾を追って海の方角へ動くのがわかります。「蛾」がすごくいいですね。「蝶」や「鳥」だと美しすぎてだいなし。

で、今月のいちおしは、この一句。
きらきらを二分茹でろと指示される 柳本々々
きらきら? 二分? 指示ってだれに?
いろんな?が湧き出てくるのですが、きらきらはきらきらのまま、二分は二分のまま、誰かの意味不明な指示に盲目的に従わねばならない、そんな壁に追い詰められた感が伝わってきます。ところで、きらきらって茹でるとぎらぎらになったりするんですかね。



ずっと以前にこのブログでもご紹介した上井とまとさんが、ラジオの音源をUPしてくださいました。
内容は前に書いたことがあるエピソードなんですが、前振りはだいじですね。
このあと、川柳の話もいっぱいしましたのです。
過去の自分とふたたびまみえることができる、というふしぎ。
自分以外のひとの耳には自分の声がこのように聞こえているのか、というふしぎ。



『やねうら #32』<本から音信がある>
上井とまと×なかはられいこ(川柳作家)







さいごにきょうのまりん。
夕陽なねこ、夕陽にねこ、夕陽のねこ、いや、夕陽とねこ。

秋でんな。
さんま焼け、飼い主。

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# by nakahara-r | 2014-09-20 19:22 | 川柳

襖を閉めて

あざみエージェント発行の「あざみ通信」NO.13が届く。

毎回、誌面に載る読み物が楽しい。
でも、おお!と思ったのは、西郷かの女さんの句集『冬の陽炎』から抜粋された、この一句だった。

大叔母が襖を閉めてゆきました 西郷かの女

叔母でも祖母でもなく「大叔母」なんである。
この大叔母、どこへ「ゆきました」のだろう? 「行く」ではなく「ゆく」であるためになんだか現実離れした感じがする。そして二度と帰ってこないような気がする。大島弓子の『ダリアの帯』のお母さまが行った先とか、三島由紀夫の『豊饒の海』に出てくる蓼科の行動のあれこれを思ったりした。

「西郷かの女」という、ちょっと変わった雅号は、初心の頃からあちこちの川柳誌で目にしていた。
30年ほど前の女性の川柳には、時実新子の影響のせいか(どうかはわからないけど)、情念が書かれた句が多かった。西郷かの女もその中の一人だった。お亡くなりになっていたことは知らなかった。

亡弟よ地にも天にも二輪草
ちちははよ冬の蛍が舞って候
ほのぼのと灯る私の現在地

合掌。

あざみエージェントの出版事業を敬愛しつつも、倉本朝世の書く川柳の大ファンであるわたしとしては、じょうじき、書いてくれ、もういちど。と言いたい。

縫い針をかざせば空に通路あり 倉本朝世
手は鳥の夢見てお釣り間違える 同
この世から剥がれた膝がうつくしい 同

これらの句をなんどあたまのなかで反芻したことだろう。
真っ青な雲ひとつない空を見上げたとき、コンビにのレジで、地下鉄の座席で。


田口麦彦さんから『新現代川柳必携』(編者:田口麦彦)が届く。
『現代川柳必携』、『現代女流川柳鑑賞事典』、『現代川柳鑑賞事典』に続いて三省堂から出たシリーズ4冊目のアンソロジーである。
本著には5000句の川柳がテーマ別に収録されている。幅広い視野で編まれているので、川柳の入り口で戸惑っているひとに安心して差し出せる一冊。
ご注文は三省堂 のHPから。



ひさしぶりにきょうのまりん。
おひるねちゅう。

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カメラむけると目あくんですわ、これ。
モデルとしてのプロ意識?


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もっふもふです。
日に日に冬仕様になってまいりました。
我が秋はねこの毛からやってきます。

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# by nakahara-r | 2014-09-13 23:35 | 川柳

プロムナード現代短歌

公開講座の告知です。

プロムナード現代短歌2014という公開講座になぜか出ることになりました。
以下、荻原裕幸 @ogiharahiroyuki さんのツイートから

【お知らせ・続き】「プロムナード現代短歌2014」、現在までに確定している情報が記載されたリーフレットのデータが以下にありますのでご利用下さい。電話による申込のご案内等、こちらのリーフレットをご参照下さい。どうぞよろしくお願いします。
短歌の講座ではありますが、他ジャンルを覗いてみるのも一興かと。
もしお時間があれば、ぜひご参加してくださいね。
(定員があるので、できればお早めに)

あと、届いている柳誌とか、東海柳壇とか、書きたいことはたまっているのですが、時間切れというか、電池切れました。
すみやかにダウンします。

では、また後日。

# by nakahara-r | 2014-09-12 00:00 | ただの日記

週刊俳句

週刊俳句の2014年8月24日号は「柳×俳」の特集号。
俳人5人と柳人5人の10人で行った、柳俳合同誌上句会に参加しました。

自分以外のだれが参加しているのか、まったく知らされないまま、
投句し選句することは、ミステリートレインに乗ったような(乗ったことないけど)どきどき、わくわく感があって、とても楽しかったです。
選句結果も選評もおもしろいですよ。

必読です。

川柳と俳句。似ていて(五七五)、違うものが2つあってよかったですね。1つじゃあ、つまらなかったですよ。

こういうことを自然体で言えてしまう、
西原さんのしなやかさ、おおらかさに感動します。

ネットがあってよかった。




# by nakahara-r | 2014-08-27 18:31 | 川柳

からすうり

たまには日記らしい日記など。

食器と食パンとペンさんが、なかはらの短歌にすてきなイラストを描いてくださってます。


いとうつくし。
いとうれし。

でも、この歌、けっして目印にしてはいけないものを目印にしている時点で間違ってます、はい。
なので「だから迷子になるんだよー」と歌人のO某氏に言われてしまうわけです。

迷子というキーワードでいつも思い出す光景があります。
わたしのいちばん古い、3歳か4歳のころの記憶の一片。
おまわりさんに抱かれてうすぐらい道をゆくと、泣きながら駆け寄ってくる祖母がいました。おまわりさんから、祖母の胸に抱き取られるわたし。
右手にからすうりを握ったまま。

それは町内会の日帰りバス旅行の帰りのできごとでした。
祖母はわたしと弟を連れて参加していました。
目を離すとどこへ行くかわからない弟に祖母はかかりっきりで、わたしはすこし淋しかったのかもしれません。
祖母はそんなわたしをすこし不憫に思ったのかもしれません。
駐車場まで歩く道すがら、生っていたからすうりを一個もいで握らせてくれました。

生まれて初めて見るからすうりでした。
ぴかぴかでつるつるで真っ赤で、そのうえくるくるした蔓までついていて、わたしは一目で魅了されました。

そんな魅力的なものが自分の手の中にあることが信じられず、うれしくて、おそれおおくて、ためすすがめつして見つめながら歩きました。

視野には前をゆく自転車屋のおばさんの茶色い靴があって、この靴についていけばいいんだと固く信じていました。

しばらくして「あれ?」と気づきました。
そこはバスの止まっている駐車場ではなくて駅だったから。
電車とバスの区別くらいはついたので、「おかしいな」と思ったのを覚えています。でも、いくら考えてもここがわからないんだけど、なぜか目印(だと信じていた)の茶色い靴に続いて電車に乗ってしまったのです。
成り行きだったとしか言いようがありません。
できることならその頃の自分に訊いてみたいものです。

しばらくして電車は発車しました。
車窓には知らない景色。車中は知らない顔ばかり。
さすがに「このままではまずい」と思ったのでしょう。切符を切りにきた車掌さんに、覚えたばかりの住所と名前を告げました。
そこからさきの記憶はとんでいます。


覚えているのは、パトカーに乗ったこと。おまわりさんの腕に抱かれたこと。
そして、握りしめたからすうりだけが、よすが、だったこと。

あとで知ったのですが、とつぜん行方不明になったわたしの捜索で池の底をさらう寸前であったらしく、それからしばらくの間、町内のおじさんやおばさんや、おじいさんやおばあさんから、外へ遊びに出るたびに「れいちゃん、どこ行くの?」と監視されつづけました。

こどものころはうっとおしくてしかたがなかった共同体ですが、
いまは、あの田舎町そのものに育ててもらったんだなあと、思います。

それから5、6年後にふたたび家出騒動をおこして、町内の消防団総出で捜索されたのは、また別のはなし。もう、ほんとにハタ迷惑なガキンチョでありました。


からすうり握ったまんま曖昧に笑ったまんまお別れをした
なかはられいこ



# by nakahara-r | 2014-08-23 21:30 | ただの日記

胸中のほていあおいをどうしましょ

タイトルはねじまき8月句会の提出句。
胃酸過多なんです、さいきん(違っ)



あざみエージェントから、
ミニ句集シリーズ2の『ペルソナの塔』(西田雅子句集)が出版されました。
いぜん紹介した『やさしい雨』がシリーズ1です。
文庫サイズのフォト句集。

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鳥かごから逃がしてあげるわたしの手
六月は銀の鎖を降りてくる
運ばれて十一月の岸へ着く
バッグには折り畳み式水平線
洗いたての虹を渡ってゆく素足

著者:西田雅子
定価:1000円(+税)
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こういう句集が本屋さんにいっぱい並べば、ジャケ買いしてくれる女の子たちがきっといるはずで、その中には「わたしも川柳書いてみたい」って思う女の子もいるはずで、がんばれ!朝世さん! と思わず両手をグーにして思いました。
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撮影協力:まりんさん




外気温36度。
ほんとに日本か、ここは。
といういちにち。仕事はお休み。
エアコンの効いた室内でのんびり読書もいいなあ。
と思ったのだけど、問答無用で連れ出され、ひさしぶりにランチにいく。
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ちゃくじつに秋がきているらしく、木陰はすずしい。
36度だけど。


おなかはいっぱいだし、暑いし、
どっか静かでゆっくりできるとこへ行こうと、三甲美術館へ涼みに(?)行く。
長良川沿いの山のふもとにあって、場所もわかりにくいせいか、
平日でも土日でも、ここに人がいるところをあんまり見たことがない。

受付のおねえさんに、きょうは静かですねーと言ったら、
「いつも静かですよ。ソファもあるので、どうぞごゆっくりしていってください、貸切です。」とにっこりしてくれる。
だから、すきです、ここ。

ここは三甲という繊維会社(たぶん)の創業者の別邸だった三法荘が、
美術館として開放されたもの。
趣味人だった創業者があつめた(たぶん)、絵画や焼き物や工芸品なんかが展示されている。

庭園には茶室もあって、庭に面した部屋でお抹茶がいただける。
背後にあるのは金華山です。
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敷地内にはすごい数の沙羅双樹が植わっていて、初夏には椿に似た、はかなげな白い花でいっぱいになる。
別名「沙羅双樹の美術館」として有名なので、こんなに人がいないのは花の時期じゃないからでもあります。
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ルノワールもシャガールも梅原龍三郎も片岡珠子もあるし、
ガレのガラス器も、織部や黄瀬戸の茶器(めっちゃ高そうな)も常設されている。

で。
いちばん会いたかったのはこのこ。
(職員のおねえさんに写真撮影許可してもらってます)
藤田嗣治の猫なのだ。
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だーれもいない館内は静かで、すてきにすわり心地のいい、高級ソファでお昼寝もできて、ものすごい贅沢な気分になる。
(ちなみに相方は一時間も昼寝した)




# by nakahara-r | 2014-08-20 20:17 | フォト日記

紙の上の句会、坂の上の句会

「おかじょうき」8月号より
今回は句会にこだわって読みました。

まず、誌上句会の特選句です。題は「雅」。
午後の廊下は蛇の抜け殻 そんな雨 笹田かなえ

ちょっとひんやりした、人の気配のない長い廊下、奥のほうまでひかりが届かないため、先はぼんやりしてる。そんなイメージが浮かびました。

「午後」「雨」「蛇」という語のつらなりで「冷、暗、静、長」という語が引き出されたのだと思います。どちらかと言えば暗くて妖しくて、うっかりすると情念に傾いてしまうところ、「抜け殻」のかさかさ感でほんのり薄らいでいるような気がします。
「そんな雨」の「そんな」が「午後の廊下は蛇の抜け殻」という措辞ぜんぶに掛かっていて、(ああ、なんだ、けっきょく雨のことしかゆってないじゃん)と気づかされておもしろかったです。
長いですよね、蛇だけに。

月例句会「屋」
リリアンの途中でミヤネ屋が怒る 月波与生

リリアン! とまずはびっくりして、「ミヤネ屋」でもういちどびっくりして、最後の「怒る」でみょーに納得しました。
ミヤネはいつも唐突に怒るという印象があって、平和にリリアン編んでる状況のひととしてはもう、怒ってるという、純粋な現象にしか意識がいかないのではないでしょうか。
で、そこでは「何に?」は置いていかれたままであるということを、再認識させられたのでした。

月例句会「安い」
笑顔笑顔笑顔笑顔(税込みで)柳本々々

スマイル0円ってやめたのかな、マック。(ちなみに関西ではマクドと言うらしいです)
4つ並んだ笑顔がカウンターに4人並んだおねえさんたちを思わせます。文字で映像が表現されていておもしろいです。
ちなみに、
えがおえが/おえがおえがお/(ぜいこみで)と、きっちり17音でもあります。
切断された二つ目の笑顔と、最後の(税込みで)に批評があって、カウンターのあっちとこっちに(税込みで)が浮遊している感覚になりました。

そのほか、印象に残った句。

ってな事でかたつむりに夕陽 奈良一艘
駄菓子屋の裏で緑青落としてる 守田啓子
インゲンぷらり 七百万の保証金 守田啓子
どもる服どもらない口どもる靴 柳本々々
群れを出る決意三色ボールペン 相田みつる
愛そうと思う吐き気が止まるまで 徳田ひろ子


ねじまき句会だったのでした。
雨ではないけど、どんより、じっとりしてる。
からだじゅうの水分が異様に重い。
浸透圧か。
と意味不明なことを思いながら、
名古屋駅から地下鉄に乗る。

「つぎはふしみー、ふしみー、つるまいせんはつぎのえきで」
とおなじみのアナウンスが流れる。
つるまいせんはつぎ。降車駅は東別院。
あ、あれ? 東別院はつるまいせんだっけ?
めいじょうせんだっけ?
栄だったよな、たしか。じゃ、めいじょうせんか。
つるまいが青でめいじょうが紫。
あれ、逆かな? どっちだっけ。

路線図のまえには背の高いおにいさんがいて、見えない。
スマホでぐぐる時間はない。
「ふしみー、ふしみー」
わ。着いちゃったよ、ふしみ。
降りるか、いや、栄だって、たしか。
えーい、ここは賭けよう。栄だ、降りない。

というわけで、みごとに賭けに勝つ。

句会後はコメダに拒否られ、上海語の飛び交う店へ。
桐子さんがアルコールに強いことは知っていた。
そのうえ辛いものにも強いことをきょう、知った。
無双やん。
どちらにもめっちゃ弱いわたしは、敵には回したくないなと、ひそかに思う、
のだった。(来月の句会につづく)


# by nakahara-r | 2014-08-18 21:08 | 川柳

ジャンルがきらきらするとき

他サイト様の引用ばかりで恐縮なのですが、週刊俳句の「句集を読む」8月3日号で、柳本々々さんに『脱衣場のアリス』をとりあげていただいてます。

以下、脱衣場を抜けるアリスより抜粋。
 
川柳という言語表現は、そのときどきにおいて語り手としての主体をつきくずす。むしろ、そのつきくずしかたを定型を用いて言表するのが川柳のもつひとつの〈過激さ〉なのではないか。

発話位置を奪われた状態で発話位置を模索しつづけること。そしてその発話位置が発話したそのことによってすでに奪われてしまってあることをみもふたもなく確認してしまうこと。しかしそういうかたちでしか、発話位置を記述=言表しえないこと。

ああ、そういうことなのかと思いました。
ひとごとみたいでずいぶんなんですけど、なんかストンと、ああ、そういうことなのか、と思いました。

川柳を書き始めて間もないころ、作中主体である<わたし>は、生活者である<わたし>ととても近かった。でも、わたしたちの蜜月は長くは続きませんでした。一回りしてしまうと、ほんとうに書きたいのはそんなことではない、と気づいたのです。

自己の内部って、なんでしょう?
内面ってなんでしょう?
ひとはだれでもそんなに確固とした内部を持っているのもなんでしょうか。
自己の内面を書く、そんなことばを耳にするたび(そんなもん、ないめん)とか、性悪にもふざけてたわけです。
わたしの内面なんぞスカッスカで、かろうじて外部から入ってくる、ささやかな情報や、貧しい経験値がかさこそと存在するだけです。

大島弓子成分や、筒井康隆成分や、阿部公房成分はあるかもしれません。ハルキ成分もすこしある。椎名林檎成分も、キヨシロー成分も、ビートルズ成分もあり、おまけに不良少女成分やら、ダメ母成分やら、すて猫成分も、かたつむり成分も、欅の成分も桜成分もちょっとずつあります。あ、あと、えのころぐさも。(生まれ変わったら、えのころぐさになりたいので 笑)

そんな<わたし>を形成する無数の成分の粒子のどれかが、ある事象に触れたときに発する、かすかなひかり。ことばにはならないような、往来。
そんなものを捉えられて、しかも言葉に変換できたらいいなあと、不遜にも思っているのです。

柳本さんはご自身のブログのお知らせでも『脱衣場のアリス』の句集評を書いてくださっています。

なによりも謎なんですよね。なんだろう、川柳、俳句、短歌って、と。
なぜ、ジャンルが問い直されればされるほど、ジャンルそのものの価値がきらきらしていくんだろう、と。

かっこえー。

# by nakahara-r | 2014-08-10 19:35 | 川柳

川柳ねじまき#1 こうべをたれる

息つめて、ずっと見てました。
圧倒的です。

柳本々々さんのあとがき全集。

「川柳ねじまき#1」の鑑賞、全員分書いていただきました。
いやー、もう、感激どころか感謝することさえ忘れるほど、すごいです。
百聞は一見にしかず。ぜひ、ブログをご訪問されることをお勧めします。

まるで一句を縦糸に、連としての三十句を横糸に織られた、織物のようです。ツイッターで、あの荻原裕幸さんが「ヤギモトすげえ!」とか叫んでしまうほど(笑)
で、わたしも叫びます。←負けず嫌い
ヤギモト、すげえ!!

御前田あなたさんもツイッターで次々と「川柳ねじまき#1」の作品を紹介してくださっています。
それがフォロワーのすべてに行き渡り、いいなと思ってくれた人が拡散してくれる。
川柳がこんなに日のあたる場所に出てしまっていいのだろうかと若干不安になったり。これは川柳書きのサガかしら?

ともあれ、感謝、感謝の数日間でありました。
柳本さん、御前田さん、引き続き、ずっと感謝いたします。
(だから、現在形で)ありがとうございます!

書きたいことはあるのですが、きょうはちょっと時間切れ。
メンバーを代表して、とりあえず謝辞を。


# by nakahara-r | 2014-08-09 23:46 | 川柳

七月の七がちからをふりしぼる

タイトルはねじまき7月句会の提出句。
7月も終わりですね。
月刊★ねじまき更新されています。
(もう、「週刊★ねじまき」でもいいんじゃないかと)←なぜか小声



柳本々々さんのブログ「あとがき全集。」 の7月24日の記事そらとぶあとがきについて思うことがあったので、忘れないうちに書いておこうと思います。

柳本さんは、(川柳には)「俳句における季語のようなデータベース的な共有された巨大なシステムとしての他者がない」、「短歌のような七七という下の句がない」から「上の句と下の句で構造化できない」ために「主体のねじれが起こりやすい」と考察されています。

いつもながら鋭いご指摘に圧倒されます。
アプローチの仕方や表現方法は違うかもしれませんが、同じようなことを考えていました(います)。
永田和宏さんの『表現の吃水 定型短歌論』の有名な「合わせ鏡説」を読んだとき、同じようなことを思いました。
上句と下句が問答という構造を成すという、あれです。
永田さんが言われる「問い」は、柳本さんが言われる「他者」ですね。
それで言えば川柳には答えしかありません。
ではほんとうに川柳には問い=他者はいないのか? 

川柳のルーツは付句です。あらかじめ提出された問いである七七に対して、答えとして書かれた五七五でした。それが進化(?)の過程で七七が外れていった。というか、七七がなくても五七五だけで自立できる句が良しとされ、残っていったのです。
では、消えた七七である、問い=他者はほんとうに消えたのでしょうか? 
わたしは目には見えないけど在る、と思っています。あるときは五七五に吸収され、あるときは「題」にかたちを変え、あるときはまぼろしの七七として、そこに存在しているのではないかと。

吸収されたり、外部にあったりする、見えない「問い」のせいで、柳本さんが言われる「ねじれ」が生じるのではないかしらと思います。



〈ねじれ〉とは、これまで存在しなかった関係性をはじめて関係しえない関係性として生み出すことではないのだろうか。そして/だからこそ、川柳にはつねに〈ねじれ〉が胚胎している。そらとぶあとがき より

# by nakahara-r | 2014-07-30 22:29 | 川柳