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『連衆』 40号  星野 泉

『39号 5句選・評』 星野 泉



五月闇またまちがって動く舌

 

 雨は降ってもどこか明るい「五月闇」の中で、一度ならずも「また」も「まちがって動く舌」。しまった・・・・、参った・・・。

 久しぶりに面白いと感じる句と出会った気がする。
 川柳と俳句の違いについてはこの『連衆』誌上でも幾度も繰り返し論じられるひとつのテーマだが、この人の句はわたしの中に正面からすとんと、あくまでも川柳として入ってきた。ナゼダロウ。
 人間というものはやたら分別や分類が好きで、やっぱり、きっちり、はっきりさせたいのかもしれない。けれど、ことこの人の作品に関しては、わたしははっきりと川柳だと言える。この人は「呼吸」が「川柳」なのかもしれない。
 簡明な言葉でさらりと、とある時間を切り取る。人の世の「せつなさ」や「うっかり」や「情けなさ」が、ある種の「おかしみ」をどこかにブレンドさせつつ、首筋をピンと伸ばして立ち上がっている。

引き抜いてみたきコードや純情や
曇天の小指ひくひくして困る
カラーコピーどれもかなしい尾てい骨
日の丸やベープマットのちいさな灯


 「引き抜く」ことによってあっけなく切れる流れ。そうやってスパッと「純情」も引き抜けたら・・・。でもそこで切れてしまうものは、いったい何だろう。自分でありながら自分にはどうしようもなくて「困る」「小指」の「ひくひく」。「曇天の」という設定も効いている。「カラーコピー」もそう、どれもしりもちだという発見(発想)。「ベープマット」の中に「ちいさな灯」の「日の丸」を見つけた滑稽さとおかしみ。どれもこれも面白うてどこか哀しいのだ。

 だがここまで書いてきて、これはあくまでもわたし自身の「ものさし」にすぎないことに気づく。どうやらわたしは<景や時の手前に情が見えるようなもの>が川柳だと考えているのではないか。唐突にぽんと吐き出される感情。そこにあらゆるモノは<情>を起立させるための道具立てにすぎない。そして振り出しにもどって、この人の句は、その道具立てがうまいのだと思う。
 誤解を怖れずに言わせてもらえば、これは川柳だ、これは俳句だ、なんていう分類は採るに足らないことかもしれない。<創るわたし>と<読むわたし>。ものさしは常にその人自身の内にあるのだから。創る人が「川柳だ」といえば「川柳」、「俳句だ」といえば「俳句」それでいいじゃないかとも想えてくる。俳句っぽい、川柳っぽい。似て非なる、とはよく言ったもの。似ているということは違うということ。じゃあどこが?と、形はあれど形のない謎はこれまた、振り出しにもどる。
 がしかし、わたしはこの人の句に「・・・っぽい」という言葉をもよせつけない確かさを感じたのである。
 「ものをもっとよく見なさい。」とは俳句を始めたころからずっとわたしが言われ続けていることだが、「ああ、ものを見るということは、こういうことかな」と「ちいさな灯」がぽっと身の内に灯ったように思えた。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:28 | いただきもの(作品への評)

川柳誌『MANO』2000年4号(2000/01)

句と歩く「テ-マ・舌」…樋口由紀子


五月闇またまちがって動く舌  なかはられいこ

 「舌」という言葉にはなんとも妖しいフェロモンが含まれている。「MANO」2号で私は「足」のかたちの不思議さを述べたが、舌はそのかたちもさることながら、その感触になんともいえない奇妙さをひそませている。また、「舌」は通俗的にも生物的にもいろいろと想像力をはたらかせてくれることができる言葉でもある。

 「舌」という言葉を使った句でまず思い出すのは、〈二枚舌だから どこでも舐めてあげる〉『ラディカル・マザ-コンプレックス』(1983年刊)の江里昭彦氏の俳句である。「どこでも舐めてあげる」という一瞬「いやらしい」と拒否反応をおこしてしまいそうな通俗語と(それは作者のねらいかも知れないが)、「二枚舌」というかなり意味性の強い言葉を組み合わせて一句を成立させている。他者にどう読まれるかは十分に知った上で、輪郭をはぐらかし、身をかわしている。
 また、この句の凄さは表出している言葉の意味とは別の意味を引き出し、言葉の持つおもしろさを見せているところにある。エロス性を逆転させ茶化すことによって人の本質を言い当てている。

 なかはられいこの川柳も「舌」という言葉の持つ潜在意識をうまく引き出し、江里氏の俳のように言葉の重層性を見せるのに成功している。「五月闇」は夏の季語であり、「梅雨時は暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇である」と俳句歳時記に説明されているが、れいこはたぶんそういう季感は意識していないと思う。「五月闇」の持つ言葉のアブナサを使いたかったのだろう。

 俳句と川柳の境界がクロスオ-バ-している状況はたしかにあるが、季語に関する認識や扱いにはまだ差異があるように感じる。川柳人は季語を日常語と同じレベルで使用するが、あるいは同じようにしか使用できないが、俳人は季語に特別な美意識を持っていて、見事に一句の中で生き返らせる。どちらかというと、俳人の季語の使い方はメンタルであり、川柳人はフィジカルなような気がする。だから、れいこの「五月闇」は季語のように過剰な比重がかかった言葉としては使用されていない。

 独自の手法で「五月闇」とつないでいる「またまちがって」などという惜辞も俳句では敬遠されるだろう。(江里氏の俳句もそういう観点から見ると俳句らしくないが)「またまちがって」という話しことばのようなちょうどいい按配の言葉は、この句が理屈や論理に陥ることを踏みとどませる役割を果たしている。こういう言葉を生かせるのも川柳の特質である。

 また「動く」は一体どこにどのようにして「動く」のだろうか。エロス性から政治性まで、この「動く」もかなりー広範にうごく。一句からいろいろな事が喚起され、書き手の意図を離れて、想像が膨らみ、言葉のおもしろさを実感させてもらった。

 ここでふと思ったのだが、川柳は書き手と読み手の距離をどう扱ってきたのだろうか。この句のように書き手と読み手に距離があり、答えが一つでない川柳、読み手に多様なイメ-ジを喚起させる川柳はどう評価されてきたのだろうか。それは、大会、句会などで見られる「抜けてナンボ」の句とは明らかに違いがある。
 
 昨今の川柳は「伝達」「共感」を武器として、最初から他人の同意を前提として書かれ、十人いれば十人が同じ読みをして、答えが一つの川柳だけを求める傾向が知らず知らずのうちに定着してきているように感じる。そのために、書き手と読み手の間に存在するえもいわれぬおもしろさが見過ごされている。この空間が個性であり、創作の醍醐味である。川柳の批評分野が開拓されなかったのも書き手と読み手の空間を見ようとしなかったためではないだろうか。

 前号で「読み」の問題を提起したのは決して読みに足枷をつけようとしたのではない。あたかも唯一の正解であるかのような読み、足枷をつけているような読みを見直しませんかと言ったつもりである。川柳でよく見られる助詞・助動詞を省略することは正確に伝えることをどこかで放棄しているのだから、答えが一つでなく、幾通りかの読みがあるのは当然でる川柳は決してみんなの思いをうまく句にしましたと代弁したり、作者の思いや事実や経験を正確に伝えたりするだけの文芸ではない。

 私たちは「公平」と「客観」をよそうあまりに川柳をだんだんつまらなくしているのではないだろうか。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:25 | いただきもの(作品への評)

『川柳木馬』84号(2000/05) 石田柊馬

『お家をゆるませる開脚』
―なかはられいこと川柳について―石田柊馬


最初に超特急でなかはられいこの初心時代をなぞっておく。
 岐阜の草刈蒼之助さんから人材発見との報があり、その人材なかはられいこは『緑』誌を発表の場とした。『緑』はカルチャーセンターの要素を持っており、初心者は川柳を書きつづけているとそれまで見えなかったものが見えてくる、という指導性に添って川柳に接していた。初心者に対して適切で基本的な、川柳という文芸の質を含んだ指針といえよう。当方は見えてくるまで気にしなくても、と傲慢だったが、御当人はたちまち「見えてくる」おもしろさに乗って才気を発揮、こちらがおみそれしましたと頭を掻く間も彼女は新婚夫婦が相手を得たことで自己発見をするように、それまで見えていた知性や感性を急速に書きまくっていた。句集『散華詩集』はそのような数年間の、いわば川柳との、蜜月時代をものがたるものである。――川柳との、とは

芯熱や かたまり肉を切っている
錆びてゆく かくれ遊びの羅紗鋏
不逞かな朝には朝の声が出る
まっすぐに伸びたレールでとてもこわい


 「芯熱」から「かたまり肉を切っている」への飛躍であり、「朝の声」という具体性と「不逞かな」の思念とのつながりをいう。前句附を粗型にもつ川柳的飛躍であり、「作者のことば」から見れば、この時期本人に川柳の独自性や味についての関心は無かったものの、川柳の伝統と形式は強くなかはられいこに働いていたのである。

◆作品論的に(1)

たとえば愛たとえば象がひざまづく

 恋愛であれ家族愛であれ同胞愛であれ、愛は他者の存在あってこその愛であり、そのどれも自己愛を混在させつつ、他者あっての愛の成就となる。「象がひざまづく」とは、愛の成り難さについての客観的なところからの思念であり、自己愛とのかかわりについての煩悶であろう。私の愛の成り難さ、私の愛は象がひざまづくような、という従来のありふれた主題の奥の、かわいそうな私というパターンは「たとえば」の措辞によって阻まれ、感傷的私性を拒む。愛、そのものが書かれているのだが、だからといって哲学の徒のそれではない。「象がひざまづく」というコミカルな表現には愛についての、作者の経験的なものから出たことをものがたる謙虚なはにかみがともなって、在る。これは川柳を書くときのなかはられいこの基本的なスタンスである。

家族が眠る水底の景色みたい
たったいま切り倒された樹の匂い
痛む箇所 線でつないでゆくと魚
口開けば鳥が飛び出すから黙る
神さまはいてもいなくてもサクラ


 初期の「とてもこわい」そして「景色みたい」「つないでゆくと」などと日常生活の中のナマの言葉をひょいと指先につまんで形式に移す。これはなかはられいこにとって二つの意味があった。ひとつは、初期の日常性の中での即詠に精神の態様を捉えるベースとして。いまひとつは、句意が日常性からサイクルをひろげて、日常生活の中での精神の様態を曳きつつ、それを客観視できる位置どりで思念する、いわばテーマ性を書くにあたっての精神リアリティの保証としてある。
 見えなかったものが見える、見た、という発見の手ごたえに自己の思念をどのように展開させることが可能か、のところでおそらく「第三埠頭」「あくにんのうすももいろの骨」の方向のおもしろみから彼女は離れはじめたのだろう。俗への横すべりの回避と言えばよいか。

無雑作に苺をつぶす コレハ神ノ手(初期)
神さまはいてもいなくてもサクラ(10年目)
アンプルの首折る音とすれ違う(11年目)


 自分が苺というものと出合ってつぶす、サクラというものと自分が偶然(宿命としての必然)出合う。サクラという生をあたえられたもののふしぎ。それらといま共に自分が在る、不可思議。「アンプルの首折る音」という事象が神経を刺すまで彼女の感性は鋭敏になった。神経の先端がおもいもよらぬところにまで及ぶことの、そこで同じ時空にあるという認識が立ちあがることの、川柳のもつ飛躍――。賢さとやさしさ、能動性と謙虚、強さと敬虔、日常生活の中の言葉が形式に乗って表現される、作品の言葉として自立する、日常的な言葉が日常性を確実に曳きつつ作品の言葉として新たな言葉となり、自立しつつなじみあう見事な秩序感。

◆作品論的に(2)
 さきに少し触れたがなかはられいこに境涯詠はほとんどない。人の世の生活の規範とか制度とか人間関係について受動的な姿勢を作品に見せることはあるが、実存を強弁するものではない。初期の「泣くもんか第三埠頭倉庫前」「胎内で薔薇散りはるかなる汽笛」などは境涯詠を好む読者に共感を呼ぶが、本人はかなり早く感傷を書くことについての精算をすませたらしい。

回線はつながりました夜空です
タンカーをひっそり通し立春す
曲がりたい泣きたい中央分離帯


などに外界からの軋轢に撓う精神を見ることができるが、それを書いて現実が変わるものではないことを知悉したところから言葉が出ている。実際に感傷に涙することがあるにちがいないが、彼女は泣きながらであっても客観視する。したがって作品のもつ悲哀はひらたく言えば旧来の愁訴よりもっときつい絶望の悲哀である。精神の受けた傷が肉体を痛めるという近年の多くの事例は、この現代的知性が感得する絶望感によるものではないか。いま、慈愛や人情は人間関係において優先されるべき上位の概念としては、無い。みんなでそのようにしていることを、なかはられいこは知っている。
 くりかえすことになるが彼女は、かなしい私、から撤退したのではない。「たとえば愛」という書き方の位置どりをはっきりと自覚したのである。この位置は当然、自己と世界についての思念を書き得る位置である。

◆作品論的に(3)

おぼろ夜のくらげのからだ手に入れる
うっかりと桃の匂いの息を吐く
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま


 この一年ほどのあいだにに書かれたエロティシズムである。草刈蒼之助さんがこの世に在れば絶賛されたにちがいない。これは初心時代の、私、を書く位置では書けない。そこで書くと下司でスキャンダルを振り撒いておわる。はっきり、世界との背反を意識することによって書かれるエロティシズムである。
 いうまでもないがエロティシズムはひとつの衝撃力をもっている。利欲充満の現世の流れはとどめがたいが、その流れの中にボコッと露出する岩礁や、流れを横切る潜在的欲求、あるいは無視できぬ異物としてエロティシズムは立ち上がる。これをあさはかに、なかはられいこの社会性とかイデオロギーの表現、アジテーション、プロパガンダ、戦略とする見方は愚劣だ。提出の六十句あるいは彼女の書いた多くの川柳を時系列で見れば、受動性から能動性への移行はあきらかであり、能動的な思考は自分がなぜ川柳にかかわっているか、いまなぜ川柳か、の自問をうながし、他の文芸と並べて自分の書いているものが川柳であると思っているのはなぜ?と、自他に問う。その他への問いのところでエロティシズムは提出されているのである。

みるみるとお家がゆるむ合歓の花

 「象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉」のエロティシズムを思い出させておもわず口もとをゆるませつつ、それが「お家」にまで突き当たるという作者の感慨の表出は見事。サドやバタイユについて言及できる知力は当方にないが純粋個人の感官のベクトルが普遍性を惹起させるおもしろさ「お家」の「お」は絶品だろう。なかはられいこは自己の世界観を敢然と書いている。そして

朝焼けのすかいらーくで気体になるの

の一句は、右の、作者が何を提出するか、提出すべき作品は作者の奈辺から作品の言葉になったかを、ある程度理解していないと読みづらい作品だ。むろん単純なアンニュイの表現と読んでも、もっと俗っぽく、朝の大あくびの一瞬と見てもまちがいではないが、ここに至って方法を確立した、と見え、書き方の安定期がはじまったと見える作品である。ただし、この方法が他の文芸の既得の範疇にあることは作家として本人が充分承知していることであり、そこに至ったということで、椅子に腰をおろすかどうか、興味のあることである。

◆作家論的に
 はなはだ抽象的でしかも単純な言い方になるが、なかはられいこは「私」を書くことを卒業して「作品」を書くに至った作家である。そこで、川柳とは、という自問に逢着した。
 これはワープロやパソコンの画面の画一的な文字の上での「インターネットを始めて、短歌や俳句の書き手との交流が深くなると」(作者のことば)のところにある意思伝達機関が大きく影響している。巻紙や便箋でいうところの、みずくき、筆跡に付随しているところの「私」性が遠くなり、活字文化に含まれている紙の手ざわりと手でめくったり次につづく言葉の量感の感得の質が無機的となって、つまり従来の人間関係から見れば関係性の希薄感、個人の存在の軽さとなっていることの影響である。画面上の記号から、「私」を読むより、画面はまず「作品」として存在し、マウスのクリックによって移動するのだから、その時わたしは悲しかったのよ、自分の実存を問うたのよ、人の世で出合う悲苦が一句を書かせるのよという風な、みずくき、や活字の迫真性は「作品」の自立感にかかえこまれてしまっているのだ。ことの当否はともかく作品はその表層を持って読まれ、問われる。「なぜこれが川柳なのか?」の問いは、作者に向かう前に作品の表面に一度とまる。画面に字を映し出した作者なかはられいこもまた読者として同じ問いを画面に向かって(作品に向かって)するのである。モノローグや会釈や挨拶や相聞や贈答は座の文芸として川柳にも流れ込んでいるが、一度そのシッポを断って、メールやインターネットにおいて生まれかわっていると言えよう。――新しい対他性の時代に入った川柳と言えるかもしれない。角度を変えて見れば、ジャンルとしてであれエコールとしてであれ、川柳という名称についての、ひとつの納得、ひとつの規定を望む神経には、パソコンの画面をひとり見つめる現代的孤独感が影響しているとも見える。おそらく、川柳作家なかはられいこはそのようなところの最前線にいるのだろう。精神とそれをとりまく状況のもつれあう循環構造はかなり露骨に――ある。作家として彼女はごく自然にそれと対応している。

 「私」を問われること少なく作品のみを問われることは、作品のリアリティや虚飾をまな板に載せることなく真正面に作品のみが置かれて最もきびしい読みに曝されるということである。なかはられいこという川柳作家の幸運は書くべき一句をなかはられいこというスパンに乗せる(なかはられいこの持つ川柳のスパンではなくて)れいこ自身がスパンであり、「私」を書かずとも「作品」を書くところで、新しい交信機器による文芸作品の交感(換)を得たことであろう。
 例えば社会、日常生活、人間関係などにある制度や規範についての思考や作品に表現される喩について川柳的飛躍とあわせて作家論を書く、これは可能だが、作品が普遍性を色濃く表現していることは一目瞭然でもあり、書けば紹介か鑑賞のおもむきとなりそうで避けた。

◆川柳性について
 川柳の歴史は普遍性の領域での他者への呼びかけであったのかもしれない。だからといってなかはられいこは普遍性を書くことで川柳とは言わない。「私」を書くことの普遍性はこれまでの川柳が保証する。おそらく「多対多」の川柳を考えているとは普遍性のレベルについてではないだろう。むしろ普遍性に付着しつづけている意味性をどのようにとりはずすかの問題であり古い言い方をすればロマンティシズムの処理であり、彼女は無意味、無価値な言語による川柳へ止揚してゆくかもしれない。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:19 | いただきもの(作品への評)

『川柳木馬』84号(2000/05) 倉本朝世

『生まれた鳥を見にゆこう』 倉本朝世


 

 ある人物について知っていた、あるいは知っている、とはいったい自分の知識のどのような状態を言うのだろうか。今回、この原稿を書くにあたってなかはられいこから送られてきた六十句を読んで、そんな疑問がふと首をもたげてきた。
 なかはられいこの名前はずいぶん以前から知っていた気がする。何しろ名前全部がひらがな表記なので彼女の名前と作品は目につきやすかったし、いつもどこかで目につくほどたくさんの句を発表していたのだと思う。そんなわけで、なかはられいこという人物はこんな川柳を書く人なのだ、というイメージはなんとなくでき上がっていたように思う。

 しかし、である。この六十句は私がこれまでもっていたなかはられいこのイメージをとんでもなく変えてしまった。ひとりの人物につけられた「なかはられいこ」というレッテルは、実はその人物と一対一の関係にあるのではなく、それによってその人物の多面性へとつながるひとつの入口にすぎなかったのだ。
 こんな当たり前のことになぜ今まで気づかなかったのだろう、と自分の不覚を恥じたが、考えてみればそんなことに気づかされるような川柳にこれまでほとんど巡りあったことがなかったのだろう。
 とにかく「なかはられいこ」とレッテルのついた玩具箱からどんどん見たこともない玩具は放り出され、あっという間に私を取り囲んだのだった。その明るく力強く、遊び心たっぷりの玩具に圧倒されて放心状態の日々が続いたが、そうそういつまでも放心しているわけにもいかず、おっかなびっくりひとつひとつの玩具にさわってみることになった。

・.『散華詩集』の時代(平成一年~五年)

泣くもんか第三埠頭倉庫前

 なかはられいこというとまず思い浮かぶ句である。たぶん一度耳で聞き、目で見ればすぐ覚え込んでしまうタイプの句だ。では、なぜそうなのか。句の仕立てが「泣くもんか」という強い意志表示(上五)とその場所(中七・下五)というきわめてシンプルな素材だけで構成されていることがまず挙げられるだろう。

 ふつう、多くの川柳が失敗してしまうのは「泣くもんか」にいたるまでの個人的経緯をごちゃごちゃと並べ立てたり、けなげにも耐えている自分をこと細かに描写しようとしすぎることだ。その点、れいこ作品のこの潔さはどうだ。あらゆる因果関係をスパッと断ち切り、「泣くもんか」という意志の生起の瞬間だけを捉えて言語化している。前後のながれを切り捨てることでことばは際立ち、まっすぐに読者へ飛び込んでくる。このように、作品をさばさばと読者に渡してしまうその潔さにまず惹きつけられる。

 また、この句は上から下まで同じ強度をもった一本の棒のような構造になっていて、それがひとかたまりとして読者に差し出される。このことも句の口誦性に貢献しているようだ。それは「泣くもんか」という強い上五とそれ以下の音声的・視覚的なバランスの問題をクリアーするための計算が「第三埠頭倉庫前」ということばによってなされているからだ。ひらがなの勝った上五と対照的に漢字をずらっと並べることで受ける視覚的なインパクトと、「泣くもんか」に負けない強さ、歯切れのよさ・勢いのよさという音声的な条件をこのことばは満たしている。たとえば、「埠頭」がもし、港や波止場などではいくら「泣くもんか」と頑張ったところで演歌の世界に限りなく流れてしまうし、「第三」ということばのもつきっぱりとした強さや簡潔さはそのほかの数字ではなかなか表せないものだ。
 かつて正岡子規の<鶏頭の十四、五本もありぬべし>について「六七本」でも同じじゃないかという議論があったが、これは言語のもつ力をまったく信じない立場の発言だろう。

 実体があってそれをことばであらわすのではなく、ことばの力で実体を生み出すことだって、文芸では可能なはずだ。「倉庫」ということばも、そこにたっている(存在している)意味を問うモチーフとしてふさわしい。<仕方なく夏夕ぐれの倉庫立つ>という俳人津沢マサ子の「倉庫」が読者に投げかけてくる問いと通底するものをれいこの句も含んでいる。ただ、津沢マサ子の句はかぎりなく存在論の方へと読者を誘うように書かれているが、れいこの句では存在論への志向は凍結され、今ここに自分が存在しているという事実を際立たせるモチーフとしてのみ「倉庫」は提示されている。物をしまい込むための倉庫とその前に立つたましいのいれものとしての人間、その人間が今「泣くもんか」という意志だけでそこに立っているという構図は印象鮮明だ。

 これまで見てきたように、表出されたものが自然にしかも鮮明なイメージをもって受け入れられるための周到な計算がさらっとおこなわれているところに、この句が佳句として人口に膾炙する条件が備わっているのだ。

無雑作に苺をつぶす コレハ神ノ手
劣情のこぶし開けば藻の匂い
胎内で薔薇散りはるかなる汽笛


 この時期のなかはられいこ作品は自分という存在のことばによる確認であり、自己の内面のありようをどのように言語化するかにその創作の重点が置かれている。
 つまり、表現したいことがすでに自己の内部にぎっしりと詰まっていて、表現の貯蔵庫としての内部からの触手が自己の外部をどのように捉え、どのようなことばを選んで自己の内部と外部を出会わせて作品を創り上げるかに腐心しているようにみえる。

 「長い間『自分の思い』を書くだけの平和な時間の中にいた」とれいこ自身語っているのは、おそらくこの時期とほぼ重なっているとみてもいい。だが、れいこは「無雑作に苺をつぶす」時のその手を「コレハ神ノ手」と直感し、「劣情」に「藻の匂い」を嗅ぎ取り、大切なものを失ってゆくことの密かな悲哀を薔薇が散る時間のうつろいに遠い汽笛を重ねあわせることで表現してみせる。ことばを引き寄せる直感の鋭さはすでにこの時期の作品の随所で光っていた。

・.『散華詩集』以後(平成七年~平成十一年)

 なかはられいこの句が次第に変化をみせはじめたこの時期、「エトヴァス」(なかはられいこ・斧田千晴・吉田三千子の三人誌)の平成七年十一月八日号に「意識する」と題した彼女のエッセイが掲載されている。

 <意識>は自己の内部に存在するのではなく、外側からの視線でなければまずいのではないかという気がする。内部は始め空白で、書く(〈意識〉する)ことはその空白を埋めていく作業ではないかと思うのだ。自己の内部を書くのではなく、書くことによって内部が形成されてゆくとしたら、作品を書くことがうんと楽しくなる。

 形而上学的な問題をいかに乗り越えるかが西洋の現代思想の中心的課題だったが、このれいこの文章にも、すでにある(存在する)世界を書くということへの疑問が表明されており、提出の文章につづく「もともと空白の内部に幻想して自家中毒をおこすよりも、〈意識〉のありようをこそ問題にして作品を書いていきたいと思う」というあたり、どこか現象学でいう純粋意識ということば(「私の意識」から生活する人間としての意味関連いっさいをはぎとって、そのあげくに残された、いろいろな事物の像や観念が生起する表象の場所としての意識のありよう)を思わせる。

 先の文章でれいこが「空白の内部」と書いているのは同時に「空白の外部」をも意味していると考えたほうがわかりやすい。空白の内部=外部を意識によってことばを選び取りながら構成してゆく、ことばによる表現とはそのような一面を持っているし、全く未知の世界が瞬時に出現するスリリングで刺激的な創作の楽しさにれいこは目覚めはじめたにちがいない。
 日常の鎖を断ち切って自由になった意識が何の先入観も偏見ももたずにことばからことばへ飛び回り、ことばとことばを結びつけ、それらを呼び込む、純粋にことばを楽しもうとするその創作姿勢から生まれた玩具たちは私をとても楽しい気分にさせてくれる。

唇が ゆめ と動いてすべて夢

 唇の動きとそれによって発語されることば、この不可思議な関係をこの句は描き出す。たとえばこの句の背後から「歴史とはじつは権力=理性によって構成されたフィクションにすぎない」(フーコー)や「歴史とは本質的に、ひとつの解釈にすぎない」(ニーチェ)という声が聞こえてきたりする。
 日常性をいっさい払拭した内部と外部の接点としての、また認識を言語化(音声化)する器官としての唇の動きに注目することで、意識にとって世界はどのように現れまた消え去るのかという問題が端的に示される。唇(一個人、たとえば権力者の意図)が語り作り上げてきたものがまさに歴史や世界の正体なのだといいう事実へ読者である私をあっという間に運んでくれる極小の装置がまさにこの句である。

抜けそうで抜けない指輪 海の家
開脚の踵にあたるお母さま


 一句目。「海の家」ということばから連想するものは、もしかしたら別のことばや表現と併記されていたら、もっと明るく楽しい雰囲気を含んでいたかもしれない。しかしれいこが「抜けそうで抜けない指輪」という表現と出会わせた途端、「海の家」の明るさ楽しさは影をひそめ一挙にマイナスイメージが浮上してきた。
 日常的生活空間ではなく、かといって遊びとしての非日常に身を投じる空間でもない、日常生活から引きずってきたものを一時預けておく薄暗い宙ぶらりんな場所―「海の家」ということばが隠し持っていた暗部は「抜けそうで抜けない指輪」の焦燥感・倦怠感に誘い出されて回り舞台のように姿を現す。
 私は、この句を読みながら「海の家」ということばの変容のさまを楽しんでいる。

 二句目も同様に「お母さま」ということばが含み持っている様々なニュアンスの中から、「開脚の踵にあたる」によって、自分の手元を離れて新しい世界へ飛び出し接触しようとすること(いわば親離れ)を阻もうとする母性の一面が浮かび上がる。ここでの「お母さま」にはすでに親愛や憧憬の感情はなく、その慇懃無礼な呼び方によって母性にまつわる悪意を決定的に暴き出すことに成功している。

鉛筆は書きたい 鳥は生まれたい

 この句にはこれまで・で取り上げた句のような新しい技巧はない。鳥が創作活動によって生み出されるべき作品の喩になってはいるが、これだって決して新しい喩ではない。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのはなぜだろう。
 ど真ん中に勢いよく投げ込まれた直球が意外に手元でグイッと伸びてグラブに収まった瞬間、ずしりと重い球だとわかる。矢継ぎ早に畳みかけるようなストレートな表現がこちらに届いた時、私の心を捉えたのはおそらくそんな重い球だったからだろう。

 つまり、この句によって実在することの意味が問われていることに気づいたからだと思う。鉛筆は書くという行為を通してはじめて鉛筆になる(実在する)のだし、創作行為もことばにすることではじめて作品という形で現れる。
 「鳥は生まれたい」というれいこの明るい率直な意思表明はその時点で文句なく共感できる。だが、それは一拍おいて「鳥は生まれたいの?」という疑問形となって、あなたや私の創作活動の意味を問うてくるのだ。

よろしくねこれが廃船これが楡

 この句からは、ことばを分けへだてなく扱い受け入れていこうとするれいこの態度がうかがえる。今もこれからもことばに関わりつづけようとする表現者の気概が感じられて、私自身とても気に入っている一句である。廃船も楡もれいこという意識との出会いをわくわくしながら待っているにちがいないし、そんな中から生み出されてくるれいこの「鳥たち」を読者である私もわくわくしながら待っていようと思う。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:19 | いただきもの(作品への評)