ジャンルがきらきらするとき

他サイト様の引用ばかりで恐縮なのですが、週刊俳句の「句集を読む」8月3日号で、柳本々々さんに『脱衣場のアリス』をとりあげていただいてます。

以下、脱衣場を抜けるアリスより抜粋。
 
川柳という言語表現は、そのときどきにおいて語り手としての主体をつきくずす。むしろ、そのつきくずしかたを定型を用いて言表するのが川柳のもつひとつの〈過激さ〉なのではないか。

発話位置を奪われた状態で発話位置を模索しつづけること。そしてその発話位置が発話したそのことによってすでに奪われてしまってあることをみもふたもなく確認してしまうこと。しかしそういうかたちでしか、発話位置を記述=言表しえないこと。

ああ、そういうことなのかと思いました。
ひとごとみたいでずいぶんなんですけど、なんかストンと、ああ、そういうことなのか、と思いました。

川柳を書き始めて間もないころ、作中主体である<わたし>は、生活者である<わたし>ととても近かった。でも、わたしたちの蜜月は長くは続きませんでした。一回りしてしまうと、ほんとうに書きたいのはそんなことではない、と気づいたのです。

自己の内部って、なんでしょう?
内面ってなんでしょう?
ひとはだれでもそんなに確固とした内部を持っているのもなんでしょうか。
自己の内面を書く、そんなことばを耳にするたび(そんなもん、ないめん)とか、性悪にもふざけてたわけです。
わたしの内面なんぞスカッスカで、かろうじて外部から入ってくる、ささやかな情報や、貧しい経験値がかさこそと存在するだけです。

大島弓子成分や、筒井康隆成分や、阿部公房成分はあるかもしれません。ハルキ成分もすこしある。椎名林檎成分も、キヨシロー成分も、ビートルズ成分もあり、おまけに不良少女成分やら、ダメ母成分やら、すて猫成分も、かたつむり成分も、欅の成分も桜成分もちょっとずつあります。あ、あと、えのころぐさも。(生まれ変わったら、えのころぐさになりたいので 笑)

そんな<わたし>を形成する無数の成分の粒子のどれかが、ある事象に触れたときに発する、かすかなひかり。ことばにはならないような、往来。
そんなものを捉えられて、しかも言葉に変換できたらいいなあと、不遜にも思っているのです。

柳本さんはご自身のブログのお知らせでも『脱衣場のアリス』の句集評を書いてくださっています。

なによりも謎なんですよね。なんだろう、川柳、俳句、短歌って、と。
なぜ、ジャンルが問い直されればされるほど、ジャンルそのものの価値がきらきらしていくんだろう、と。

かっこえー。

by nakahara-r | 2014-08-10 19:35 | 川柳


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