2010年 09月 21日
『連衆』 40号 星野 泉
五月闇またまちがって動く舌
雨は降ってもどこか明るい「五月闇」の中で、一度ならずも「また」も「まちがって動く舌」。しまった・・・・、参った・・・。
久しぶりに面白いと感じる句と出会った気がする。
川柳と俳句の違いについてはこの『連衆』誌上でも幾度も繰り返し論じられるひとつのテーマだが、この人の句はわたしの中に正面からすとんと、あくまでも川柳として入ってきた。ナゼダロウ。
人間というものはやたら分別や分類が好きで、やっぱり、きっちり、はっきりさせたいのかもしれない。けれど、ことこの人の作品に関しては、わたしははっきりと川柳だと言える。この人は「呼吸」が「川柳」なのかもしれない。
簡明な言葉でさらりと、とある時間を切り取る。人の世の「せつなさ」や「うっかり」や「情けなさ」が、ある種の「おかしみ」をどこかにブレンドさせつつ、首筋をピンと伸ばして立ち上がっている。
引き抜いてみたきコードや純情や
曇天の小指ひくひくして困る
カラーコピーどれもかなしい尾てい骨
日の丸やベープマットのちいさな灯
「引き抜く」ことによってあっけなく切れる流れ。そうやってスパッと「純情」も引き抜けたら・・・。でもそこで切れてしまうものは、いったい何だろう。自分でありながら自分にはどうしようもなくて「困る」「小指」の「ひくひく」。「曇天の」という設定も効いている。「カラーコピー」もそう、どれもしりもちだという発見(発想)。「ベープマット」の中に「ちいさな灯」の「日の丸」を見つけた滑稽さとおかしみ。どれもこれも面白うてどこか哀しいのだ。
だがここまで書いてきて、これはあくまでもわたし自身の「ものさし」にすぎないことに気づく。どうやらわたしは<景や時の手前に情が見えるようなもの>が川柳だと考えているのではないか。唐突にぽんと吐き出される感情。そこにあらゆるモノは<情>を起立させるための道具立てにすぎない。そして振り出しにもどって、この人の句は、その道具立てがうまいのだと思う。
誤解を怖れずに言わせてもらえば、これは川柳だ、これは俳句だ、なんていう分類は採るに足らないことかもしれない。<創るわたし>と<読むわたし>。ものさしは常にその人自身の内にあるのだから。創る人が「川柳だ」といえば「川柳」、「俳句だ」といえば「俳句」それでいいじゃないかとも想えてくる。俳句っぽい、川柳っぽい。似て非なる、とはよく言ったもの。似ているということは違うということ。じゃあどこが?と、形はあれど形のない謎はこれまた、振り出しにもどる。
がしかし、わたしはこの人の句に「・・・っぽい」という言葉をもよせつけない確かさを感じたのである。
「ものをもっとよく見なさい。」とは俳句を始めたころからずっとわたしが言われ続けていることだが、「ああ、ものを見るということは、こういうことかな」と「ちいさな灯」がぽっと身の内に灯ったように思えた。