川柳誌『MANO』2000年4号(2000/01)

句と歩く「テ-マ・舌」…樋口由紀子


五月闇またまちがって動く舌  なかはられいこ

 「舌」という言葉にはなんとも妖しいフェロモンが含まれている。「MANO」2号で私は「足」のかたちの不思議さを述べたが、舌はそのかたちもさることながら、その感触になんともいえない奇妙さをひそませている。また、「舌」は通俗的にも生物的にもいろいろと想像力をはたらかせてくれることができる言葉でもある。

 「舌」という言葉を使った句でまず思い出すのは、〈二枚舌だから どこでも舐めてあげる〉『ラディカル・マザ-コンプレックス』(1983年刊)の江里昭彦氏の俳句である。「どこでも舐めてあげる」という一瞬「いやらしい」と拒否反応をおこしてしまいそうな通俗語と(それは作者のねらいかも知れないが)、「二枚舌」というかなり意味性の強い言葉を組み合わせて一句を成立させている。他者にどう読まれるかは十分に知った上で、輪郭をはぐらかし、身をかわしている。
 また、この句の凄さは表出している言葉の意味とは別の意味を引き出し、言葉の持つおもしろさを見せているところにある。エロス性を逆転させ茶化すことによって人の本質を言い当てている。

 なかはられいこの川柳も「舌」という言葉の持つ潜在意識をうまく引き出し、江里氏の俳のように言葉の重層性を見せるのに成功している。「五月闇」は夏の季語であり、「梅雨時は暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇である」と俳句歳時記に説明されているが、れいこはたぶんそういう季感は意識していないと思う。「五月闇」の持つ言葉のアブナサを使いたかったのだろう。

 俳句と川柳の境界がクロスオ-バ-している状況はたしかにあるが、季語に関する認識や扱いにはまだ差異があるように感じる。川柳人は季語を日常語と同じレベルで使用するが、あるいは同じようにしか使用できないが、俳人は季語に特別な美意識を持っていて、見事に一句の中で生き返らせる。どちらかというと、俳人の季語の使い方はメンタルであり、川柳人はフィジカルなような気がする。だから、れいこの「五月闇」は季語のように過剰な比重がかかった言葉としては使用されていない。

 独自の手法で「五月闇」とつないでいる「またまちがって」などという惜辞も俳句では敬遠されるだろう。(江里氏の俳句もそういう観点から見ると俳句らしくないが)「またまちがって」という話しことばのようなちょうどいい按配の言葉は、この句が理屈や論理に陥ることを踏みとどませる役割を果たしている。こういう言葉を生かせるのも川柳の特質である。

 また「動く」は一体どこにどのようにして「動く」のだろうか。エロス性から政治性まで、この「動く」もかなりー広範にうごく。一句からいろいろな事が喚起され、書き手の意図を離れて、想像が膨らみ、言葉のおもしろさを実感させてもらった。

 ここでふと思ったのだが、川柳は書き手と読み手の距離をどう扱ってきたのだろうか。この句のように書き手と読み手に距離があり、答えが一つでない川柳、読み手に多様なイメ-ジを喚起させる川柳はどう評価されてきたのだろうか。それは、大会、句会などで見られる「抜けてナンボ」の句とは明らかに違いがある。
 
 昨今の川柳は「伝達」「共感」を武器として、最初から他人の同意を前提として書かれ、十人いれば十人が同じ読みをして、答えが一つの川柳だけを求める傾向が知らず知らずのうちに定着してきているように感じる。そのために、書き手と読み手の間に存在するえもいわれぬおもしろさが見過ごされている。この空間が個性であり、創作の醍醐味である。川柳の批評分野が開拓されなかったのも書き手と読み手の空間を見ようとしなかったためではないだろうか。

 前号で「読み」の問題を提起したのは決して読みに足枷をつけようとしたのではない。あたかも唯一の正解であるかのような読み、足枷をつけているような読みを見直しませんかと言ったつもりである。川柳でよく見られる助詞・助動詞を省略することは正確に伝えることをどこかで放棄しているのだから、答えが一つでなく、幾通りかの読みがあるのは当然でる川柳は決してみんなの思いをうまく句にしましたと代弁したり、作者の思いや事実や経験を正確に伝えたりするだけの文芸ではない。

 私たちは「公平」と「客観」をよそうあまりに川柳をだんだんつまらなくしているのではないだろうか。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:25 | いただきもの(作品への評)


<< 『連衆』 40号  星野 泉 『川柳木馬』84号(2000/... >>