『川柳木馬』84号(2000/05) 倉本朝世

『生まれた鳥を見にゆこう』 倉本朝世


 

 ある人物について知っていた、あるいは知っている、とはいったい自分の知識のどのような状態を言うのだろうか。今回、この原稿を書くにあたってなかはられいこから送られてきた六十句を読んで、そんな疑問がふと首をもたげてきた。
 なかはられいこの名前はずいぶん以前から知っていた気がする。何しろ名前全部がひらがな表記なので彼女の名前と作品は目につきやすかったし、いつもどこかで目につくほどたくさんの句を発表していたのだと思う。そんなわけで、なかはられいこという人物はこんな川柳を書く人なのだ、というイメージはなんとなくでき上がっていたように思う。

 しかし、である。この六十句は私がこれまでもっていたなかはられいこのイメージをとんでもなく変えてしまった。ひとりの人物につけられた「なかはられいこ」というレッテルは、実はその人物と一対一の関係にあるのではなく、それによってその人物の多面性へとつながるひとつの入口にすぎなかったのだ。
 こんな当たり前のことになぜ今まで気づかなかったのだろう、と自分の不覚を恥じたが、考えてみればそんなことに気づかされるような川柳にこれまでほとんど巡りあったことがなかったのだろう。
 とにかく「なかはられいこ」とレッテルのついた玩具箱からどんどん見たこともない玩具は放り出され、あっという間に私を取り囲んだのだった。その明るく力強く、遊び心たっぷりの玩具に圧倒されて放心状態の日々が続いたが、そうそういつまでも放心しているわけにもいかず、おっかなびっくりひとつひとつの玩具にさわってみることになった。

・.『散華詩集』の時代(平成一年~五年)

泣くもんか第三埠頭倉庫前

 なかはられいこというとまず思い浮かぶ句である。たぶん一度耳で聞き、目で見ればすぐ覚え込んでしまうタイプの句だ。では、なぜそうなのか。句の仕立てが「泣くもんか」という強い意志表示(上五)とその場所(中七・下五)というきわめてシンプルな素材だけで構成されていることがまず挙げられるだろう。

 ふつう、多くの川柳が失敗してしまうのは「泣くもんか」にいたるまでの個人的経緯をごちゃごちゃと並べ立てたり、けなげにも耐えている自分をこと細かに描写しようとしすぎることだ。その点、れいこ作品のこの潔さはどうだ。あらゆる因果関係をスパッと断ち切り、「泣くもんか」という意志の生起の瞬間だけを捉えて言語化している。前後のながれを切り捨てることでことばは際立ち、まっすぐに読者へ飛び込んでくる。このように、作品をさばさばと読者に渡してしまうその潔さにまず惹きつけられる。

 また、この句は上から下まで同じ強度をもった一本の棒のような構造になっていて、それがひとかたまりとして読者に差し出される。このことも句の口誦性に貢献しているようだ。それは「泣くもんか」という強い上五とそれ以下の音声的・視覚的なバランスの問題をクリアーするための計算が「第三埠頭倉庫前」ということばによってなされているからだ。ひらがなの勝った上五と対照的に漢字をずらっと並べることで受ける視覚的なインパクトと、「泣くもんか」に負けない強さ、歯切れのよさ・勢いのよさという音声的な条件をこのことばは満たしている。たとえば、「埠頭」がもし、港や波止場などではいくら「泣くもんか」と頑張ったところで演歌の世界に限りなく流れてしまうし、「第三」ということばのもつきっぱりとした強さや簡潔さはそのほかの数字ではなかなか表せないものだ。
 かつて正岡子規の<鶏頭の十四、五本もありぬべし>について「六七本」でも同じじゃないかという議論があったが、これは言語のもつ力をまったく信じない立場の発言だろう。

 実体があってそれをことばであらわすのではなく、ことばの力で実体を生み出すことだって、文芸では可能なはずだ。「倉庫」ということばも、そこにたっている(存在している)意味を問うモチーフとしてふさわしい。<仕方なく夏夕ぐれの倉庫立つ>という俳人津沢マサ子の「倉庫」が読者に投げかけてくる問いと通底するものをれいこの句も含んでいる。ただ、津沢マサ子の句はかぎりなく存在論の方へと読者を誘うように書かれているが、れいこの句では存在論への志向は凍結され、今ここに自分が存在しているという事実を際立たせるモチーフとしてのみ「倉庫」は提示されている。物をしまい込むための倉庫とその前に立つたましいのいれものとしての人間、その人間が今「泣くもんか」という意志だけでそこに立っているという構図は印象鮮明だ。

 これまで見てきたように、表出されたものが自然にしかも鮮明なイメージをもって受け入れられるための周到な計算がさらっとおこなわれているところに、この句が佳句として人口に膾炙する条件が備わっているのだ。

無雑作に苺をつぶす コレハ神ノ手
劣情のこぶし開けば藻の匂い
胎内で薔薇散りはるかなる汽笛


 この時期のなかはられいこ作品は自分という存在のことばによる確認であり、自己の内面のありようをどのように言語化するかにその創作の重点が置かれている。
 つまり、表現したいことがすでに自己の内部にぎっしりと詰まっていて、表現の貯蔵庫としての内部からの触手が自己の外部をどのように捉え、どのようなことばを選んで自己の内部と外部を出会わせて作品を創り上げるかに腐心しているようにみえる。

 「長い間『自分の思い』を書くだけの平和な時間の中にいた」とれいこ自身語っているのは、おそらくこの時期とほぼ重なっているとみてもいい。だが、れいこは「無雑作に苺をつぶす」時のその手を「コレハ神ノ手」と直感し、「劣情」に「藻の匂い」を嗅ぎ取り、大切なものを失ってゆくことの密かな悲哀を薔薇が散る時間のうつろいに遠い汽笛を重ねあわせることで表現してみせる。ことばを引き寄せる直感の鋭さはすでにこの時期の作品の随所で光っていた。

・.『散華詩集』以後(平成七年~平成十一年)

 なかはられいこの句が次第に変化をみせはじめたこの時期、「エトヴァス」(なかはられいこ・斧田千晴・吉田三千子の三人誌)の平成七年十一月八日号に「意識する」と題した彼女のエッセイが掲載されている。

 <意識>は自己の内部に存在するのではなく、外側からの視線でなければまずいのではないかという気がする。内部は始め空白で、書く(〈意識〉する)ことはその空白を埋めていく作業ではないかと思うのだ。自己の内部を書くのではなく、書くことによって内部が形成されてゆくとしたら、作品を書くことがうんと楽しくなる。

 形而上学的な問題をいかに乗り越えるかが西洋の現代思想の中心的課題だったが、このれいこの文章にも、すでにある(存在する)世界を書くということへの疑問が表明されており、提出の文章につづく「もともと空白の内部に幻想して自家中毒をおこすよりも、〈意識〉のありようをこそ問題にして作品を書いていきたいと思う」というあたり、どこか現象学でいう純粋意識ということば(「私の意識」から生活する人間としての意味関連いっさいをはぎとって、そのあげくに残された、いろいろな事物の像や観念が生起する表象の場所としての意識のありよう)を思わせる。

 先の文章でれいこが「空白の内部」と書いているのは同時に「空白の外部」をも意味していると考えたほうがわかりやすい。空白の内部=外部を意識によってことばを選び取りながら構成してゆく、ことばによる表現とはそのような一面を持っているし、全く未知の世界が瞬時に出現するスリリングで刺激的な創作の楽しさにれいこは目覚めはじめたにちがいない。
 日常の鎖を断ち切って自由になった意識が何の先入観も偏見ももたずにことばからことばへ飛び回り、ことばとことばを結びつけ、それらを呼び込む、純粋にことばを楽しもうとするその創作姿勢から生まれた玩具たちは私をとても楽しい気分にさせてくれる。

唇が ゆめ と動いてすべて夢

 唇の動きとそれによって発語されることば、この不可思議な関係をこの句は描き出す。たとえばこの句の背後から「歴史とはじつは権力=理性によって構成されたフィクションにすぎない」(フーコー)や「歴史とは本質的に、ひとつの解釈にすぎない」(ニーチェ)という声が聞こえてきたりする。
 日常性をいっさい払拭した内部と外部の接点としての、また認識を言語化(音声化)する器官としての唇の動きに注目することで、意識にとって世界はどのように現れまた消え去るのかという問題が端的に示される。唇(一個人、たとえば権力者の意図)が語り作り上げてきたものがまさに歴史や世界の正体なのだといいう事実へ読者である私をあっという間に運んでくれる極小の装置がまさにこの句である。

抜けそうで抜けない指輪 海の家
開脚の踵にあたるお母さま


 一句目。「海の家」ということばから連想するものは、もしかしたら別のことばや表現と併記されていたら、もっと明るく楽しい雰囲気を含んでいたかもしれない。しかしれいこが「抜けそうで抜けない指輪」という表現と出会わせた途端、「海の家」の明るさ楽しさは影をひそめ一挙にマイナスイメージが浮上してきた。
 日常的生活空間ではなく、かといって遊びとしての非日常に身を投じる空間でもない、日常生活から引きずってきたものを一時預けておく薄暗い宙ぶらりんな場所―「海の家」ということばが隠し持っていた暗部は「抜けそうで抜けない指輪」の焦燥感・倦怠感に誘い出されて回り舞台のように姿を現す。
 私は、この句を読みながら「海の家」ということばの変容のさまを楽しんでいる。

 二句目も同様に「お母さま」ということばが含み持っている様々なニュアンスの中から、「開脚の踵にあたる」によって、自分の手元を離れて新しい世界へ飛び出し接触しようとすること(いわば親離れ)を阻もうとする母性の一面が浮かび上がる。ここでの「お母さま」にはすでに親愛や憧憬の感情はなく、その慇懃無礼な呼び方によって母性にまつわる悪意を決定的に暴き出すことに成功している。

鉛筆は書きたい 鳥は生まれたい

 この句にはこれまで・で取り上げた句のような新しい技巧はない。鳥が創作活動によって生み出されるべき作品の喩になってはいるが、これだって決して新しい喩ではない。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのはなぜだろう。
 ど真ん中に勢いよく投げ込まれた直球が意外に手元でグイッと伸びてグラブに収まった瞬間、ずしりと重い球だとわかる。矢継ぎ早に畳みかけるようなストレートな表現がこちらに届いた時、私の心を捉えたのはおそらくそんな重い球だったからだろう。

 つまり、この句によって実在することの意味が問われていることに気づいたからだと思う。鉛筆は書くという行為を通してはじめて鉛筆になる(実在する)のだし、創作行為もことばにすることではじめて作品という形で現れる。
 「鳥は生まれたい」というれいこの明るい率直な意思表明はその時点で文句なく共感できる。だが、それは一拍おいて「鳥は生まれたいの?」という疑問形となって、あなたや私の創作活動の意味を問うてくるのだ。

よろしくねこれが廃船これが楡

 この句からは、ことばを分けへだてなく扱い受け入れていこうとするれいこの態度がうかがえる。今もこれからもことばに関わりつづけようとする表現者の気概が感じられて、私自身とても気に入っている一句である。廃船も楡もれいこという意識との出会いをわくわくしながら待っているにちがいないし、そんな中から生み出されてくるれいこの「鳥たち」を読者である私もわくわくしながら待っていようと思う。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:19 | いただきもの(作品への評)


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