『川柳木馬』84号(2000/05) 石田柊馬

『お家をゆるませる開脚』
―なかはられいこと川柳について―石田柊馬


最初に超特急でなかはられいこの初心時代をなぞっておく。
 岐阜の草刈蒼之助さんから人材発見との報があり、その人材なかはられいこは『緑』誌を発表の場とした。『緑』はカルチャーセンターの要素を持っており、初心者は川柳を書きつづけているとそれまで見えなかったものが見えてくる、という指導性に添って川柳に接していた。初心者に対して適切で基本的な、川柳という文芸の質を含んだ指針といえよう。当方は見えてくるまで気にしなくても、と傲慢だったが、御当人はたちまち「見えてくる」おもしろさに乗って才気を発揮、こちらがおみそれしましたと頭を掻く間も彼女は新婚夫婦が相手を得たことで自己発見をするように、それまで見えていた知性や感性を急速に書きまくっていた。句集『散華詩集』はそのような数年間の、いわば川柳との、蜜月時代をものがたるものである。――川柳との、とは

芯熱や かたまり肉を切っている
錆びてゆく かくれ遊びの羅紗鋏
不逞かな朝には朝の声が出る
まっすぐに伸びたレールでとてもこわい


 「芯熱」から「かたまり肉を切っている」への飛躍であり、「朝の声」という具体性と「不逞かな」の思念とのつながりをいう。前句附を粗型にもつ川柳的飛躍であり、「作者のことば」から見れば、この時期本人に川柳の独自性や味についての関心は無かったものの、川柳の伝統と形式は強くなかはられいこに働いていたのである。

◆作品論的に(1)

たとえば愛たとえば象がひざまづく

 恋愛であれ家族愛であれ同胞愛であれ、愛は他者の存在あってこその愛であり、そのどれも自己愛を混在させつつ、他者あっての愛の成就となる。「象がひざまづく」とは、愛の成り難さについての客観的なところからの思念であり、自己愛とのかかわりについての煩悶であろう。私の愛の成り難さ、私の愛は象がひざまづくような、という従来のありふれた主題の奥の、かわいそうな私というパターンは「たとえば」の措辞によって阻まれ、感傷的私性を拒む。愛、そのものが書かれているのだが、だからといって哲学の徒のそれではない。「象がひざまづく」というコミカルな表現には愛についての、作者の経験的なものから出たことをものがたる謙虚なはにかみがともなって、在る。これは川柳を書くときのなかはられいこの基本的なスタンスである。

家族が眠る水底の景色みたい
たったいま切り倒された樹の匂い
痛む箇所 線でつないでゆくと魚
口開けば鳥が飛び出すから黙る
神さまはいてもいなくてもサクラ


 初期の「とてもこわい」そして「景色みたい」「つないでゆくと」などと日常生活の中のナマの言葉をひょいと指先につまんで形式に移す。これはなかはられいこにとって二つの意味があった。ひとつは、初期の日常性の中での即詠に精神の態様を捉えるベースとして。いまひとつは、句意が日常性からサイクルをひろげて、日常生活の中での精神の様態を曳きつつ、それを客観視できる位置どりで思念する、いわばテーマ性を書くにあたっての精神リアリティの保証としてある。
 見えなかったものが見える、見た、という発見の手ごたえに自己の思念をどのように展開させることが可能か、のところでおそらく「第三埠頭」「あくにんのうすももいろの骨」の方向のおもしろみから彼女は離れはじめたのだろう。俗への横すべりの回避と言えばよいか。

無雑作に苺をつぶす コレハ神ノ手(初期)
神さまはいてもいなくてもサクラ(10年目)
アンプルの首折る音とすれ違う(11年目)


 自分が苺というものと出合ってつぶす、サクラというものと自分が偶然(宿命としての必然)出合う。サクラという生をあたえられたもののふしぎ。それらといま共に自分が在る、不可思議。「アンプルの首折る音」という事象が神経を刺すまで彼女の感性は鋭敏になった。神経の先端がおもいもよらぬところにまで及ぶことの、そこで同じ時空にあるという認識が立ちあがることの、川柳のもつ飛躍――。賢さとやさしさ、能動性と謙虚、強さと敬虔、日常生活の中の言葉が形式に乗って表現される、作品の言葉として自立する、日常的な言葉が日常性を確実に曳きつつ作品の言葉として新たな言葉となり、自立しつつなじみあう見事な秩序感。

◆作品論的に(2)
 さきに少し触れたがなかはられいこに境涯詠はほとんどない。人の世の生活の規範とか制度とか人間関係について受動的な姿勢を作品に見せることはあるが、実存を強弁するものではない。初期の「泣くもんか第三埠頭倉庫前」「胎内で薔薇散りはるかなる汽笛」などは境涯詠を好む読者に共感を呼ぶが、本人はかなり早く感傷を書くことについての精算をすませたらしい。

回線はつながりました夜空です
タンカーをひっそり通し立春す
曲がりたい泣きたい中央分離帯


などに外界からの軋轢に撓う精神を見ることができるが、それを書いて現実が変わるものではないことを知悉したところから言葉が出ている。実際に感傷に涙することがあるにちがいないが、彼女は泣きながらであっても客観視する。したがって作品のもつ悲哀はひらたく言えば旧来の愁訴よりもっときつい絶望の悲哀である。精神の受けた傷が肉体を痛めるという近年の多くの事例は、この現代的知性が感得する絶望感によるものではないか。いま、慈愛や人情は人間関係において優先されるべき上位の概念としては、無い。みんなでそのようにしていることを、なかはられいこは知っている。
 くりかえすことになるが彼女は、かなしい私、から撤退したのではない。「たとえば愛」という書き方の位置どりをはっきりと自覚したのである。この位置は当然、自己と世界についての思念を書き得る位置である。

◆作品論的に(3)

おぼろ夜のくらげのからだ手に入れる
うっかりと桃の匂いの息を吐く
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま


 この一年ほどのあいだにに書かれたエロティシズムである。草刈蒼之助さんがこの世に在れば絶賛されたにちがいない。これは初心時代の、私、を書く位置では書けない。そこで書くと下司でスキャンダルを振り撒いておわる。はっきり、世界との背反を意識することによって書かれるエロティシズムである。
 いうまでもないがエロティシズムはひとつの衝撃力をもっている。利欲充満の現世の流れはとどめがたいが、その流れの中にボコッと露出する岩礁や、流れを横切る潜在的欲求、あるいは無視できぬ異物としてエロティシズムは立ち上がる。これをあさはかに、なかはられいこの社会性とかイデオロギーの表現、アジテーション、プロパガンダ、戦略とする見方は愚劣だ。提出の六十句あるいは彼女の書いた多くの川柳を時系列で見れば、受動性から能動性への移行はあきらかであり、能動的な思考は自分がなぜ川柳にかかわっているか、いまなぜ川柳か、の自問をうながし、他の文芸と並べて自分の書いているものが川柳であると思っているのはなぜ?と、自他に問う。その他への問いのところでエロティシズムは提出されているのである。

みるみるとお家がゆるむ合歓の花

 「象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉」のエロティシズムを思い出させておもわず口もとをゆるませつつ、それが「お家」にまで突き当たるという作者の感慨の表出は見事。サドやバタイユについて言及できる知力は当方にないが純粋個人の感官のベクトルが普遍性を惹起させるおもしろさ「お家」の「お」は絶品だろう。なかはられいこは自己の世界観を敢然と書いている。そして

朝焼けのすかいらーくで気体になるの

の一句は、右の、作者が何を提出するか、提出すべき作品は作者の奈辺から作品の言葉になったかを、ある程度理解していないと読みづらい作品だ。むろん単純なアンニュイの表現と読んでも、もっと俗っぽく、朝の大あくびの一瞬と見てもまちがいではないが、ここに至って方法を確立した、と見え、書き方の安定期がはじまったと見える作品である。ただし、この方法が他の文芸の既得の範疇にあることは作家として本人が充分承知していることであり、そこに至ったということで、椅子に腰をおろすかどうか、興味のあることである。

◆作家論的に
 はなはだ抽象的でしかも単純な言い方になるが、なかはられいこは「私」を書くことを卒業して「作品」を書くに至った作家である。そこで、川柳とは、という自問に逢着した。
 これはワープロやパソコンの画面の画一的な文字の上での「インターネットを始めて、短歌や俳句の書き手との交流が深くなると」(作者のことば)のところにある意思伝達機関が大きく影響している。巻紙や便箋でいうところの、みずくき、筆跡に付随しているところの「私」性が遠くなり、活字文化に含まれている紙の手ざわりと手でめくったり次につづく言葉の量感の感得の質が無機的となって、つまり従来の人間関係から見れば関係性の希薄感、個人の存在の軽さとなっていることの影響である。画面上の記号から、「私」を読むより、画面はまず「作品」として存在し、マウスのクリックによって移動するのだから、その時わたしは悲しかったのよ、自分の実存を問うたのよ、人の世で出合う悲苦が一句を書かせるのよという風な、みずくき、や活字の迫真性は「作品」の自立感にかかえこまれてしまっているのだ。ことの当否はともかく作品はその表層を持って読まれ、問われる。「なぜこれが川柳なのか?」の問いは、作者に向かう前に作品の表面に一度とまる。画面に字を映し出した作者なかはられいこもまた読者として同じ問いを画面に向かって(作品に向かって)するのである。モノローグや会釈や挨拶や相聞や贈答は座の文芸として川柳にも流れ込んでいるが、一度そのシッポを断って、メールやインターネットにおいて生まれかわっていると言えよう。――新しい対他性の時代に入った川柳と言えるかもしれない。角度を変えて見れば、ジャンルとしてであれエコールとしてであれ、川柳という名称についての、ひとつの納得、ひとつの規定を望む神経には、パソコンの画面をひとり見つめる現代的孤独感が影響しているとも見える。おそらく、川柳作家なかはられいこはそのようなところの最前線にいるのだろう。精神とそれをとりまく状況のもつれあう循環構造はかなり露骨に――ある。作家として彼女はごく自然にそれと対応している。

 「私」を問われること少なく作品のみを問われることは、作品のリアリティや虚飾をまな板に載せることなく真正面に作品のみが置かれて最もきびしい読みに曝されるということである。なかはられいこという川柳作家の幸運は書くべき一句をなかはられいこというスパンに乗せる(なかはられいこの持つ川柳のスパンではなくて)れいこ自身がスパンであり、「私」を書かずとも「作品」を書くところで、新しい交信機器による文芸作品の交感(換)を得たことであろう。
 例えば社会、日常生活、人間関係などにある制度や規範についての思考や作品に表現される喩について川柳的飛躍とあわせて作家論を書く、これは可能だが、作品が普遍性を色濃く表現していることは一目瞭然でもあり、書けば紹介か鑑賞のおもむきとなりそうで避けた。

◆川柳性について
 川柳の歴史は普遍性の領域での他者への呼びかけであったのかもしれない。だからといってなかはられいこは普遍性を書くことで川柳とは言わない。「私」を書くことの普遍性はこれまでの川柳が保証する。おそらく「多対多」の川柳を考えているとは普遍性のレベルについてではないだろう。むしろ普遍性に付着しつづけている意味性をどのようにとりはずすかの問題であり古い言い方をすればロマンティシズムの処理であり、彼女は無意味、無価値な言語による川柳へ止揚してゆくかもしれない。
by nakahara-r | 2010-09-21 18:19 | いただきもの(作品への評)


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