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バクダンとウソとジユウをありがとう

短歌:氏橋奈津子
文:なかはられいこ


鍵盤の上のひだまり舞いあがり落ちる和音という名の埃   氏橋奈津子


路地をちょっと入ったところに古い二階建てのアパートがあった。
そのアパートの裏手には青桐の木があって、
青桐の下はかっこうの不要品置き場となっていた。
そこには錆びたトースターとか中綿のはみ出たふとんとか、
割れた鏡とかつるつるになったタイヤとかにまじって、
古びた赤いピアノが捨てられていた。
うしろの足が1本、ぐらぐらしてはいたけれど、
まだちゃんと音の出るおもちゃのピアノ。
赤いピアノはなぜ自分がここにいるのか、
いまだによくわからないでいた。
それでも、持ち主だったシオリちゃんという女の子の、
やわらかくてあたたかい指の感触を思い出すたびに、
とてもやすらかなきもちになることができた。


雨が降った。
モルタルのアパートに、青桐の葉っぱに、赤いピアノに。
しとしとしとしと雨は一日中降った。
あくる日、赤いピアノは「ミ」の音が出なくなったことに気がついた。

世界から「ミ」の音が消えた。
ミカンもミルクもミラクルもミスタードーナツもミャンマーもミヤシタさんも、
およそ「ミ」のつくものはすべて消えた。
とりわけひとびとを当惑させたのは、ミミが消えたことだった。
ミミを無くしたひとびとは、驚き悲しみ憤り途方に暮れて右往左往した。
電話も音楽もラジオもミミカキも用を足さなくなって、
ついには青桐の下に捨てられた。

ふたたび雨が降った。
アパートの鉄階段に、青桐の幹に、赤いピアノに。
さめざめさめざめ雨は一日中降った。

赤いピアノは不安にふるえた。
あくる日、「シ」の音が出なくなっていたら?
「シ」はシオリちゃんのシだ。
世界から、シャワーやシャンプーやシトロエンや
システムキッチンやシラタキやシガラミが消えるのはいい。
たとえシアワセが消えたとしてもなんでもなかった。
そもそもシアワセがどういうものだか赤いピアノは知らなかったから。
だけど、シオリちゃんのことは知っている。
やわらかくてあたたかい指で、いとおしそうに白い鍵盤に触れてもらった記憶は、
赤いピアノのいちばん大切なものだった。

「シ」が消えるのは、どうしても、
だめ。

赤いピアノは自分の1メートル先に大きな水たまりがあるのを見つけた。
決断は早かった。
注意深く3本の足で立ち上がろうとする。
うしろの足はぐらぐらでまっすぐ立つのは難しかった。
なるべく後ろに重心をかけないように残った足でバランスをとりながら、
ひょこたんひょこたんと水たまりのほとりまで歩く。
力を使い果たした赤いピアノは、
前のめりになったまま水のなかに突っ伏した。
確実に「不要品」になるために。


バクダンとウソとジユウをありがとう   なかはられいこ
by nakahara-r | 2003-04-01 11:06 | きりんの脱臼(短編)

なかはられいこ 川柳と暮らす


by なかはられいこ
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